カテゴリ:雑記( 24 )

明日の音霊 言霊

明日の野中さんのイベントの準備をしています。
年末の大掃除とからめての準備

先ほども、吉永さんの書作品が到着
プロジェクターの準備など、色々やることがありそうです。

演奏は野中さんの能管 柳川三味線の戸波さん
パーカッションの渡辺さん。

書の吉永さん、現在は清水寺に展示中
西方寺にも沢山作品送ってもらってるけど大丈夫なのか。

なんだかうちで多くの人にみてもらわなくて大丈夫なのか?
などと不安に思いつつ・・・

こちらのブログに地図を載せておきます


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以下は案内文

書と音楽の2本立てのイベントです。
書でお寺の本堂や庫裏を案内したり紹介したりしながら、文字のパワーと書の広がりを楽しんで頂いて、コンサートでは日常と違う別次元にお招きいたします。
見えない世界や普段は意識しない事柄にも目を向けて交流したいと思っております。

日時:12月6日(日)16時開場、17時コンサート

会場:西方寺(京都市右京区常盤出口町1)

予約料金:大人¥2,500/中学生以下¥1,500
    (当日は各¥500プラス)

出演者:吉永益美(書)
    渡辺亮(画・パーカッション)
    戸波有香子(柳川三味線)
    野中久美子(能管)
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by munehito_miwa | 2015-12-05 12:06 | 雑記 | Trackback | Comments(0)

東北へ

2012年6月、傾聴僧の会、「僧だ東北へ意向(行こう)」では
名取市閖上地区の視察の後、石巻の集会所訪問から3年経ちました。

その間、関西で移住者、避難者支援のカフェデモンクを毎月開催していましたが
今回は7月19日~21日までの計画で東北に行ってきました。(*今回はお茶道具とお菓子も持って)
始めに石巻渡波視察と移動して集会所訪問
20日は大槌の集会所訪問。双方とも鍼灸師チームと傾聴チーム合同で動きました。
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仮設に暮らしている方々の話を聴けば、4年経っても2011年当時の事がありありと思い返されます。
ただ、状況は刻一刻と変化し続けているので、苦しいことや、思いが色々変化され、
一人一人の個別性がはっきりして来られていた。

親族がみんな助かった人、半分以上なくなったひと
遠くの息子が帰ってきた人、遠くの子供の家に行く人
自分の土地は危険地域で帰れない人、帰還できるが造成が終わらず帰れない人
他に土地を買って、そこに住む人、復興住宅に住んだ人、亡くなる人
2年だった仮設住宅は、盛り土など完成しなくて土地に帰れず結局4年以上居住せざるをえない人
仮説住宅も4年たって、補強工事しないと危なくなっていたり。

「みんな色々で、状況が違うのよ」

とおっしゃられていました。

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新しい堤防ですが、登らないと海がみえません。長さも被災にあったところは果てしなく作る模様。
これだけの堤防を作っても、線を引いて、ここから危険だからと線の内側の人は帰れません。

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海は写真の一番奥ですが、津波がこの写真のところまで到達
盛り土していますが、震災のときの津波がきたら、結局ここまで到達しそう?

「盛り土なんかしないで、立派な避難道を作ってくれるだけだったら、もう帰って来てるだろうに」
といった声も。

工事によってもちろん助かる人も喜ばれる人もいらっしゃるでしょうし、
工事が終われば整然としたきれいな街ができるのでしょう。
ただ、海と山と川と湧水の町に来て、海と川は堤防で見えなくて、山は開発で切り開かれて
住民もどれだけ帰って来られるかわからない。
なんだか人と自然が蹂躙されているみたいで、胸苦しく、居た堪らない気持ちがしました。

「地域は誰がやるの?」
「自分で言って、自分がやらないといけないんだよ」
「自分でやらないといけないんだよ」

案内してくれた先生の言葉が耳に残りました。

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閖上には慰霊塔が建てられていました。
2012年に行った時と状況はそんなに変わっていないようでした。
復興というより慰霊をするところのような気配が印象的でした。
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by munehito_miwa | 2015-07-22 14:52 | 雑記 | Trackback | Comments(0)

習合して混交

自己紹介をするときに

「お寺の坊さんです」

というと必ず

「なに宗ですか?」

と聞かれます。まじめに答えると
大体において、「へぇ~、そうなんですね~・・・・・」
で話が終わる。ただ分かって終わりみたいな・・・。
いつもいつでも心の中でどこでもええやん!どこでもええんやん!って思っています。
その後無理やり深い話にもっていくのですが、、。

知人の先生曰く

『「君一年生なのか。何組?」「そうかあ3組かあ…」
で話が続かないのと同じような気がしました。一般人にとっての宗派とはその程度の識別性なのでしょう。』

そんな日常会話に期待しすぎる私です。


というのも、宗派も沢山あるし、宗教も沢山あってややこしいのはわかるけど
最近は賛成か反対か、とか右翼か左翼か、とか原発賛成派か反対派か、とか
白黒はっきりさせたがりなのじゃないかな、と感じます。
世の中もっと複雑で多様で混沌としているのに、それをそのまま受け取らずに
ひとまとめにしてスッキリハッキリさせて、そこで話を切るのは、無理があるように思います。

明治以前の神仏が混交してた状況は今かんがえると面白いなぁ、と思う。
今、「雅楽やってます」って言うと「雅楽は神社じゃないんですか?」
とか必ずといっていいほど言われますが「もともとは東大寺で・・」とか説明して「ふーん」みたいな。

そういう物事をわけて考えるのって対立を生むだけのような。宗派間対立とか。
もっとおおらかに、神も仏も坊さんも神職も陰陽師も山伏も拝み屋も、巫女もイタコも
宮中も武家も民間もいろんな人がいて混沌としていて且つ共存するおおらかさが楽しく生きる醍醐味だと思っています
それを廃止して国家神道でひとまとめに多様性を消してしまい、後戻りできず、悲惨な状況を作ってしまったんだから。

色は即ち空 空は即ち色 あるようでない ないようである
賛成の反対なのだ、、、とか一概にいえなくって。
そんな議論をするのを放棄しようとしている気がします。
国会ももっと議論して欲しいなぁ








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by munehito_miwa | 2015-05-21 16:57 | 雑記 | Trackback | Comments(0)

標的となってるのは?

日本の報道の自由度ランキングが61位と、毎年どんどん下がって、
最新の発表で、アジアでは台湾、モンゴル、韓国より悪くなりました。

情報の発信する人は増えているのと、
東日本大震災の時に、お上にとって都合の悪い情報は表にあまりでない事を学んだので
自ら情報を探す癖がついたのか、いろんな情報がでてるなぁ、とは思っていたのですが。。

テレビを無批判に垂れ流しに観たり、新聞の見出しだけ読んでいると
全然知らされてないのかも。

最近、大谷さんのところで『標的の村』という映画の公開と監督の講演がありました。

今日の新聞にも、この映画の自主上映を企画したところ、横浜市教育委員会が後援をとりやめたそうですが、教委にメールと電話の抗議(圧力?)があったそうです。*HPにその見解

賛否両論はあるでしょうけど、映画を観て、沖縄で起きてる事実を観ないことには、
現在、マスコミで報道されている沖縄の事実だけでは判断できないと思います。

それで映画と講演の感想

最近オスプレイが日本に導入されましたが、
沖縄の高江の集落を囲むようにヘリパッド(ヘリの離着陸場)を建設することに対して
住民の反対運動を取り上げています。

最初、防衛局は「オスプレイは来ない」と言っていたのに、オスプレイが導入が決まった。
何故、集落を囲むように6箇所のヘリパッドの基地を作るのか?
以前から集落の上空を低空飛行するヘリからは、軍人がドアを開けてこちらを覗いている事から
地上戦の軍事演習、オスプレイの戦場使用での練習に高江が使われるのでは。
いわゆる軍事練習の標的にされる。

ヘリパッドの基地を作る際の口実には、北の基地を返還するから、と、
それは負担軽減だから、ここにヘリパッドを作るという理屈。
本当はヘリパッドが欲しくて、実戦での練習場所を確保したいという事が地元の人にはバレてる。

それは現在、地元沖縄の許可を得ない強引な埋め立てで問題になってる辺野古基地計画に繋がっていて、
普天間基地が危険だからと、負担軽減に辺野古に移設するという理屈ですが
普天間は必要なくて、本当は辺野古に海軍基地が欲しい、という事も地元に人にはバレてる。

だからこその激しい反対運動で、現在も怪我人や、先日は逮捕される現状が起きてる。
辺野古の希少な自然を壊して、世界戦略の基地にされようとしてる。
中東で起きてることとも繋がっている事が感じられました。大浦湾には現在、何十隻もの軍艦が姿をみせる日があるそうです。

早く辺野古に基地を作れとアメリカに圧力をかけられているのか、
そりゃ首相も太宰府の梅の使者の巫女さんには会うけど、
沖縄の翁長さんには会わない理由も慮ってしまう。

表に出せない余程の理由が両国の間にすでにかわされてて
日本は自分自身がイラクやシリアやリビアみたいに標的にならないように、
無表情なマスクをかけて、自然を壊して
人殺しの拠点作りをお膳立てしていくみたいだ。
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by munehito_miwa | 2015-02-14 11:25 | 雑記 | Trackback | Comments(0)

ブータンのシンポジウムで思ったこと

ブータンのシンポでお題が、仏教と戦争だったのだけれど、今枝先生のお話。
先代国王がスーパースターで、戦争を仏教的教えを基盤とした直感による行動で解決しました的話であった。
「ただ良い人間でありなさい」という直感。それは穿ってみれば、ドロドロとした取引や交渉など、
世渡り上手な選択も直感で出来る強みなのかな。

というのも平和な国といいながら紛争が過去にあって、そのアッサム武装勢力を掃討するための軍事行動が決行されたわけだが、
「軍にとって一番難しい事は、勝つことではなく、平和を保つことである」
という考え方を持ち。たとえ勝利しても、戦勝祝いをせず、捕虜に対しても平等。不殺生戒という、仏教を基盤とした考え方を実行にうつすことによって、報復行為を防いだとされるようだ。

それは「ただ良い人間でありなさい」という事(直感?)の実践なのか、はてまた、対外関係はインドを介して行われていたように、海千山千の交渉上手だったのか?
「国王を政治的ドロドロから遠ざけるために、理論ではなく直感で判断する『無垢な存在』にしてあるのでは」
という友人談は秀逸でした。

ただ、「怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない」という法句経の言葉を
戦争にも国家の精神基盤として、選択しているだろうことは頼もしいことだと思う。
よくよく、自分を見つめなおして考えてみれば、わかりそうなものだ。

ブータンには特に「幸せ」という抽象概念はないらしいが、国民にそうたらしめているのが、
祈りの時間との事。それは学生でも一日一時間はあって、
それは自分をみつめる時間。

自分を見つめる時間を削って経済活動に費やさされている何処かの国とは違う。
他国との交渉が下手なのも、国民の声も音にしか聞こえないと言ってしまうのも。
自分を見つめる時間があれば、沖縄の基地や、放射能や原発で 困っている人の声は
ちゃんと声として聞こえて、直感として助ける側に回れるハズなんだけど、そうはならない。
毎年、自死が3万人を超える国の中で、国民の苦しむ政策を続けてしまう事は、
いま問題になっている中学のいじめと一体どう違うのだろうか?
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by munehito_miwa | 2012-07-09 15:33 | 雑記 | Trackback | Comments(0)

欲望増幅装置について

最近FBやツイッターにかまけて、ブログが置き去りになってました。
こちらにもちょこちょこ案内や以下のような記述を戻しておこうかな、
と、FBやツイッターに書いてた文章をまず一本

パワースポットのブームが長いこと続いてる。
その場所に入る度に思うことは、欲望と執着の集積する場に変じていて、清々しいというよりも、ドロドロとした雰囲気を纏っている場がある。そのドロドロとした異様な雰囲気がパワーだと勘違いしている人もいるのかもしれない。

神社などでは清々しい空間を作るため、毎日お祓いして、少しでもそういった魔が入らぬようお焚きあげなどしているようですが、
本来その土地と関係ないところから多くの願望を持ってお参りされる人を、「パワーがもらえるから」と、どんどん送客するのが地域興しという形になっているが、振興という名の経済活動で、それは信仰とは違う形でお参りをされているのではないかと感じている。

経済振興は社寺の本来の役割を忘れさせる麻薬のようなトラップで、寺院に目立って(個人的な感想)トラップに引っかかってる場が多いように思う。(訳の分からない仏像群があるようなところとか)

せっかく人里離れたところ(欲望や執着から離れる修行のため?)に作ったのに、その場所に願望を叶えてもらうために人が行き過ぎるのは、良い「気」が散るうえに、さらに「欲」の念が溜まる場所になるのではないのか。

古代から神仏と崇められた対象からこちらが何を気付くかが問題であって、一方的に何かを求めに行くように薦めるのではなくて、
現代であれば、御神水が煮沸しないと飲めなくなったとか、神域の山が開発されたとか、鹿によって下草が食べられて保水力を失った境内地が拡がっているとか、神域が放射能で汚染されてるとか、そういったところから、なにか自分自身が気付くきっかけを得るように
神様仏様は、自分を映すカガミと、懺悔と感謝してお参りできたらと思います。

まぁでも、ブームで欲望だらけの自分に気づくのも、良きことかな。
そういう意味でも、現代は自分自身に向き合う時間が徹底的にかけているのではないだろうか。
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by munehito_miwa | 2012-07-09 14:34 | 雑記 | Trackback | Comments(0)

盆とか地域のお祭りについて

「よその地域のお祭りやし、行くの遠慮してましてん」

地域のお祭りについて考える事が増えた。
お祭りに数年かかわってきて、友人知人を招いてきたけれど
案外、近い地域だけど別の地域に住まわれている方は
誘ってもあまり来られない。

遠慮はしなくていいですよ、と、お伝えするが
やはり遠慮するものなのかもしれない。

それは地域の繋がりが密接であるほど、
他の地域のお祭りにはいかないかもしれない。

地域の繋がりがない程、
よその地域の祭りに出かけるのかもしれない

ここ数年、お寺の名前が送り火のお寺と同じなので
間違えて護摩木を購入しに来られる方が年々増えてきている。
うちの付近には燃やせるような山はないのですが・・・

どこの地域にも神社お寺を中心として
祭りが行われていたであろうし、ましてや盆の季節は
地元のお祭りに地域の人たちは集まっていたのだろう。
よそのお祭りに行っている場合ではなかったのでは。

そういう意味では京都は地域のお祭りが残っているようだ。
祇園祭といえども、離れた地域の京都人は行かない人の多いこと。

よその盆踊りに参加してみて思った事は
盆踊りが先祖迎えの儀式で、迎えた先祖を供養する踊りだとして
よそさんが入っていたら、その地域の先祖さんもたじろがはるのかなぁ、と。
少し場違いな、地域の人の場所へお邪魔している気分になった。
それは山の中の集落の送り火でも思った

祭りはどうしたって、その地域の神さんや先祖さんとの結び付きが強いわけで
そういう意味では、現代のようにいろいろな情報が飛交うなかで、
地域外の人が地域のお祭りにどんどん参加していくなか
お祭りの本来の意味がどこかに飛んでいってしまうような気がしてる。
地域のものが地域のものでなくなっていく現象が起きている。

お祭りにしたって、仏事にしたって
本来どういう出来事から行われることになったのかを探らないと
中身のないものに成り下がっていくような、単なるイベントになってしまっては
続ける気持ちは年々薄まっていくのではないかと思う。

懐かしい思いにかられるのは、地域の人と人との交流に
地域の先祖さんの思い出がプラスアルファで感じられる事が大事だったのかも
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by munehito_miwa | 2011-08-20 14:06 | 雑記 | Trackback | Comments(2)

素朴な音とは

聲明は日本の音楽の源流とも言われていますが。
歌という意味でおもしろいなぁ、と感じる日々。

ユニゾンなんだけど、そのシンプルさが、かえって想像力や聴きての感性を刺激するように思える。
称えるのも、聴いているのも、慣れてくると倍音が捉えられるようになってくる。

歌とか音楽というのは、もともとの成り立ちは、神と交信するとか
神に捧げるとかの意味合いがあるようですが

それはお為後かしで、本能による異性への求愛から始まっているのではないのか?
とも思う訳です。

懐かしい、古代の日本では和歌にて恋人を作った時代
民族楽器には、そういう異性へのアプローチに使う意味での発祥の楽器が多くあるようだ。
アイヌのトンコリやムックリ
17日の法要で吹いていただく、中国のひょうたん笛もそのようらしい。

ましてや坊さんも、現在ではなかなか考えられない話しだけど
お経を称える声を競って、容姿も声も美しい坊さんに、世の女子が集ったとの話も聞いたり。

そんな素朴な楽しいものであったろうに、儀式化や形式化され、融通のきかない
面白味のないものが、現在に残っているのだとしたら、もったいない話だ。

鳥のさえずりや、虫の音のように、素朴な、心に直接響くような
そんな音を、囚われなく紡ぎ出せればよいのになぁ。
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by munehito_miwa | 2010-12-08 21:47 | 雑記 | Trackback | Comments(0)

人と自分が違うのは当たり前

神事 仏事 踊り 絵画 彫刻 宝飾 音楽 演劇 etc.

単純に人を元気にさせるモノが本来で
人を疲れさせるモノは違うのじゃないのか?
最近思うことしきり。。。

モノの解説どうこうではなくて、モノから単純に、
生理的に直感的にどういう印象を受けるかどうかを自分に素直に聞いてみると、
モノの取捨選択がとても楽になるように思う。

疲れるモノは総じてエゴが強く、主張の激しい音や絵や踊りを
観たり聴いたりしていると疲れて疲れて仕方がない。
人間関係もしかり。
それでも、疲れるモノを最後までキチンと観たり聴いたりしてしまうのは、
その人の個性を認めないといけないような気がしてしまうから。

個性を勧める社会が凄い!とか素晴らしい!とか言うから。
はてまた、貴重だ!とか、値段が高いから!とか。

見方と捉え方の押しつけが横行しているよう。
この文章みたいに???

個性を大事にする社会風潮ってどうなのだろうか?
人と自分と違うのはもともと当たり前の話で、
その違い、個性を押しつけがましく提示し強調することで、
過剰な経済活動に繋げたいだけなのでないの?


そういう囚われから逃れると、単純に自身の気持ちが楽になれるモノに出会えて、
自分が疲れてしまうモノは去っていくよう。


他と自分は違うのは当たり前で、そのことを普通に受け止めるだけでよいのに
とっても皆、無理をしている気がして、その無理を受け止めるのが疲れるだけ。



*神社の祓いとか、仏教の浄めとかは、そういう無理を消す作用を教えてくれてるのかもしれないですね
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by munehito_miwa | 2010-11-15 12:19 | 雑記 | Trackback | Comments(0)

ゆるまる体験

目からゆるめて、肩や腰、骨盤を欠伸しながら・・・
背伸びしながらため息をつきながら・・・なにかにもたれながら・・・
人にもたれながら、しなだれながら
ゆるめていくと

体も気持ちもユルユルになって
気だるく、体が重い感じになって、どうでもよくなってくる。
そういう空っぽな時は、なんだか妙に感覚が冴えてる心地

たんなる鈴の音が妙にクリアに細部まで聴こえる気がする。

多分、「たんなる鈴」という概念が消えてるからだと思う。

たまにはリラックスしすぎるぐらいにリラックスして
身体を緩める機会をつくる事をしないと

モノを感じる事を阻害する概念はいつまでも身体と心に張り付いて
生きた心地を感じることを阻害するのだろう

それと、自分で思っているよりも、体って疲れてるわ、、、
それに気づけただけでも良しといったとこか・・・。


先日は国際学会のオープニングで雅楽を演奏してきたのですが
海外の方はあきらかに日本人とは楽しむ姿勢が違うのだなぁ、と感じた。
立食パーティーでも、地べたに座ったり、子供と戯れたり、演奏が始まっても
皆さまこの瞬間に自分の好きな事を存分に楽しんでいる。
食い入るように、こちらを観られる方。、遠くで話に夢中の方。写真ばかりの方
なんとなく聴いている方。

自由だった!*自ずからに由るって感じ

この場合はこうしないといけないとか
こういう格好をしないといけないとか
楽しくなくても聴かないといけないとか
人の邪魔をしてはいけないとか

皆さま思い思いに楽しんで、

良い意味で空気を読まない。

おかげでこちらも堅苦しくなくて、緊張することなく
のびのびと楽しく、気持ちよく演奏することができた。
しばらく残る高揚感。

いつもの法要や儀式での堅苦しい雰囲気は微塵もなく
いつもは、その法要や儀式の終わった後の解放感が
また気持ち良かったりもするのだが、

のびのび演奏した後に残る高揚感というのは、
今までにない不思議な気持ちを与えてくれました。

世界中の多様な人種が集まる場所って楽しいな。
多様性っていうのは楽しいんだろうな、と肌で感じた日
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by munehito_miwa | 2010-09-14 12:01 | 雑記 | Trackback | Comments(3)