記憶などの繋がりについて 蓮生忌にむけて

とあるお寺の阿弥陀三尊に向かい合った時に

「今にも吸い込まれそうな気持になります」

という感想をお持ちになられた方がいらっしゃったそうだ。

「いやいや、まだ早いですよ」
なんて声をかけたいところですが、その方の本音なのかもしれない。

その阿弥陀様は天皇の念持仏だったもので、
亡くなられる際にも拝んでいた仏だろうといわれている。

お寺というところは、そんな歴史が残っているところで
当時の人の思いや記憶が随所に感じられる。

1000年前の仏像や、数百年前の木材などはざらで
その場にあったものを傷んだから、古くなったから、と、捨てるというのは忍びない。
当時の記憶や関わった人の思いまでなくしてしまうみたいで。

その場の力というものは、新しいから、綺麗だから良いというものではなくて
昔の人、過去の人と現在の人の思いが繋がっている事を
感じられる事が、その場の力になっているのではないだろうか。

ようするに繋がりが欲しい。
繋がっていると感じる事が
安らぎにつながっていくような。

人の安らぎや楽しみなんていうのも
他者との関係性から生まれるように。


ところで念仏って、なんで唱えるの?
という疑問は常にあがり、その都度いろいろ考えるのですが、
自分が死んだ後には、何かに繋がるの?
という不安があるのではないでしょうか。

「今にも吸い込まれそうな気持」

というのは、阿弥陀様を前にして
自分自身の終わりを意識しての言葉と私は受け取ったのですが
どうでしょうか?

あの世との繋がりを欲しての仏であり念仏であると。

さて、西方寺開基の蓮生忌ですが
蓮生さんが念仏堂を建てたのが、西方寺の名前の最初。
どんな思いで念仏をし、念仏堂を建てたのか。

11月12日の法要までにそんな事を
を少し考えていきたいと思いました。
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by munehito_miwa | 2012-10-18 12:12 | 自坊行事 | Trackback | Comments(0)
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