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家の北隣の遺跡

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家の物干しから遺跡をのぞむ

5/26 京都市埋蔵文化財研究所 資料より

村ノ内遺跡調査

1.調査のあらまし

村ノ内遺跡は、弥生時代後期から中世にかけての集落遺跡です。調査地周辺で実施した広域下水道工事に伴う立会調査では、弥生時代の溝や土坑、弥生時代から平安時代にかけての遺物が出土しています。

調査地の南東側には古墳時代後期の常盤東ノ町古墳群、南西側には古墳時代から飛鳥時代の集落群である常盤仲之町遺跡、北西側には常盤稲荷塚古墳・常盤柏ノ木古墳群があります。また調査地の南西約300mの地点には、渡来系氏族の秦氏の氏寺である広隆寺があります。


2.調査の成果

これまでに、室町時代までの遺構の調査を終え、現在は飛鳥時代(1350年前)の遺構の調査段階で、飛鳥時代の竪穴住居跡10棟、柱穴、土坑などを検出しています。

竪穴住居跡は調査区の全域で発見しています。同じ場所に1~2回程度建て替えられたらしく、2~3基が重複している箇所があります。調査区の範囲内では、同時に2~3棟が建っていたものと考えられます。規模は一辺3~5.5mの方形で、深さは0.1~0.2m残っています。(中略)この時期の竪穴住居跡は、壁ぎわに土を塗り固めたカマドを設置しているものが一般的ですが、今回調査した竪穴住居跡には、いずれもカマドがありません。一方、床に焼けた痕跡が見られるものもあるので、作りつけのカマドではなく、土師器や須恵器で作られた移動式カマドを使用していたものと考えられます。ただし、移動式カマドの実物は今のところ出土していません。埋土からは土師器・須恵器などが出土しました。住居の方向は、いずれも北西に傾きます。

そのほか、柱穴を多数検出していることから、同時期に堀立柱建物が存在した可能性もありますが、建物として復元できるまでには至っていません。

3.まとめ

村ノ内町古墳遺跡は、これまで弥生時代を主体とする遺跡と考えられてきましたが、調査例が少なく、その実態が不明でした。今回の調査では、飛鳥時代の竪穴住居跡を多数検出しました。この時代は、付近に多数造られていた古墳が造られなくなり、広隆寺が造営される時期に相当します。広隆寺の周囲には、飛鳥時代の竪穴住居跡が数多く発見されていますが、今回発見した竪穴住居跡は、これらの中でも最も北に位置し、飛鳥時代の太秦を中心とする集落が、より広範囲に広がっていたことが明らかになりました。

*以上、5/29の説明会配布資料より


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住居の復元

飛鳥時代の竪穴住居では東西南北を合わせた立て方をしていませんが
これらの住居群は方角を北西にかたむけて合わせているようです。
中国文化が入ってくると、方角を合わせていくようです。

礎石はなくて、柱を立てても10年くらいで腐ってくるのではないか、との事。
このぐらいの規模は、いわゆる当時の庶民が暮らしていたのだと思われるみたい。

飛鳥時代の竪穴住居は広隆寺周辺に70軒程度見つかっているようです。
これはかなり多めなようで、当時、このあたりは非常に活気があったのではと、想像できるようです。

移動式のカマドは珍しいとの事でしたが、そのことを「唐カマド」といったりするようです。
遺跡の時代の頃は朝鮮あたりの情勢が不安定だったので、日本に多くの人々が移住してきていたようです。
この太秦あたり一帯は、これらの渡来系の秦氏が、広隆寺を中心に集まって暮らしていた場所とも考えられるようです。

そういうわけで、うちの南隣の古墳の礎石をご神体とした天王社八幡宮も秦氏の関係という信憑性が高まります。


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写真の溝は、建物の周囲に板を立てていた跡

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柱の跡の中に礎石が入っているのは、室町期の住宅跡と思われるようです。
礎石があるだけに、結構大きな住宅だと思われるものが一件だけ見つかったみたいで
私としては、隣のお寺との関連性に思いをはせます。

この私の住む一帯は、京都に都が来るずっと以前から、人々の暮らしがあったことを思うと、何やら不思議なおもしろい気持ちがします。
by munehito_miwa | 2010-05-30 11:34 | 天王社八幡宮
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